目次

  1. [2005年02月02日]:自動車について
  2. [2005年02月08日]:無題はてなダイアリーより転載)

本文

自動車について [ 2005年02月02日 ]

私の高校では二月から三年生の授業が無くなるので、受験に合格した私にとっては2ヶ月ほどの休暇が出来たことになる。同じく受験に合格した同級生たちは、この2ヶ月間を使って普通自動車免許を取るつもりらしい。1月初めにようやく18歳になった私も免許を取ることは可能なのだが、正直取るつもりはない、というか取りたくない。友人達にそう言うと必ず驚いた表情で私を見る。

非常識を承知で書くのだが、普通は18歳になると男性は免許を取りたがるものなのだろうか?私は男性なのだが、免許を取って自動車に乗りたいという気持ちがまったく起こらない。もちろん営業職についたら自動車を持たなければならないし、そうでなくとも自動車が運転できないといろいろ不便なことは知っているが、それでも自動車の運転は避けたいと思っているし、できれば一生自動車は運転せずに済みたいとさえ思っている。

私が自動車の運転を嫌う理由は三点ある。一点目は自動車事故を起こすのが怖いということ。二点目は喘息持ちなので排ガスが出る自動車が生理的に嫌いだということ。そして三点目は、自動車による移動ではゆっくり周りの風景を見ることができないということだ。最も大きい理由は三点目だ。たいした理由じゃないと思われるかもしれないが、私にとって風景をゆっくり眺めることができなくなってしまうのは、人生の楽しみを一つ失うことと言っても過言ではないのだ。


私は外にいるときは空をボーっと眺めていたり、道で遊んでいる子供達や通行人の様子を観察していたりするので、歩く速さがかなり遅い。友人達と歩いていると、ついていけずに少し後ろにいたりすることがある。自転車をこいでいるときも同様で、時間があるときは人がジョギングする程度の速度で運転しているので、自転車を使う意味が無いとよく友人に突っ込まれたりする。これらの点から見ると、私は普通の人よりも周りの風景をよく見る方なのだろう。(余談だがたしか先週の木曜日だったか、早朝6時半頃に見た月はいつもよりも輝いて、くっきりと月の表面の模様が見えているのが非常に綺麗だった。平安朝の頃の月は今のものよりも数倍か大きく見えていたらしいが、平安に生きる人々が月に対して抱いた感動を少し味わった気がした)

自動車を運転するのが好きな人々はおそらく、時速数十キロのスピードを体感できるところに快感を得ているのだと思うのだが、私にとってはそれは美しい風景や微笑ましい子供達の遊んでいる様子などが全てスキップされてしまうだけで、まったく面白くない。


別に自動車でも風景を見ることができるわけだし、自動車好きの人全員が日常の美しさをまったく見ないようになっているとは思わないが、移動にほとんど自動車を使ってしまうような人は是非散歩などをしてゆっくりと外の風景を味わってみてほしい。じっくりと見ているときっと見慣れた風景も違った趣を現してくるはずだ。

無題 [2005年02月08日]

知的財産権に関する主要な問題点

青色発光ダイオードや一太郎訴訟などのニュースを見ていて思った、日本における知的財産権を巡る問題点。

  1. 一般国民の知的財産権の知識が低い。
  2. 特許取得手続きに手間がかかる。
  3. 技術を開発した社員が企業から適当な報酬無しに権利を奪われてしまうケースがある。
  4. 企業戦略など不適当な用途で利用されている。

前半二点は現在小泉内閣が法整理やPR活動をして解消しようとしているが、後半二点はいまだ解消されようとしない。3番目が青色、4番目が一太郎に関連した問題。

日本語ドメインの脆弱性発見。Firefoxに影響

http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0502/08/news028.html

Firefox・Operaにバグがあるわけではないので、これはユーザーが詐欺にひっかからないように気を付けるしかない。最近は詐欺の話ばっかりで嫌になるなあ。

遅読のすすめ

遅読のすすめ

遅読のすすめ

図書館にてタイトルが気になったので借りて読んでみた。内容は要約してみると「読書とは食事と同じように個人個人その人に合ったスタイルがあるので、無理に速読しようとすると生活バランスを崩し、あまり健康的ではない。数をこなそうとする読書法よりも、内容を咀嚼しながらゆっくりと読んでいく"遅読"の方が日常生活において知識内容が定着する。だから速読術に手を出すことなく自分なりのスピードで本を読むほうが良い。」という感じ。

全体の構成は

  1. ゆっくり読む
  2. 幸福な読書
  3. 暮しの時間
  4. 大食いと多読
  5. 読書の周期
  6. 本を手にして

の全5章で成り立っている。サブカル的なタイトルに比べて内容はエッセイに近いので少し肩透かしを食らったが、古今東西様々な文化人の読書観が引用されているのと、読書と食を結びつけているのが面白く、遅読コンプレックスがみるみる解消されるので、そう質の悪い本ではない。

ただ、あまり論理的な文章ではないので説得力は薄い。それと、しきりに立花隆の速読経験について触れるのがくどい。作者自身、遅読コンプレックスが強いのが明白。編集者は指摘しなかったのだろうか。

以下引用

目が文字を追っていくと、それにともないながら、その情景があらわれてくる。目のはたらき、理解のはたらきがそろっている。そのときはおそらく、呼吸も、心拍も、うまくはたらき合っている。それが読むということだ。読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ。

なんとなく齋藤孝の身体論に似ていなくもない。

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