目次

  1. 09月17日:はてなダイアリーはもういいや。
  2. 09月19日:私の読書癖

本文

はてなダイアリーはもういいや。[2005年09月17日]

久しぶりに更新してみる。実は過去10回ぐらい更新をしようとしたのだが、どれも失敗に終わった。理由は簡単に言えば、はてなダイアリーのせいである。このサイトの雑記を更新しようとするたび、「それくらいの文章、はてなダイアリーで書けばいいじゃん」「はてなダイアリーで書いたほうが人来るよ?」といった悪魔(?)の囁きが聞こえてきて、頓挫してしまうのだ。そしてはてなダイアリーで書こうとすると、自分でマークアップが出来ない、自分の好きなエディタで書けない、いちいちカテゴリを気にしなきゃいけない、と不満がどんどん溜まっていって、結局書くことに集中できない…。

今、私が雑記を書けるようになったのは、はてなダイアリーで更新することの利便性を無視するようにしたからである。はてなダイアリーに限らず、ブログで更新することの利点は主に以下の通りである。

  1. HTMLを意識せずに更新できる
  2. CSSを意識せずに(テンプレートを使用することにより)サイトのデザインができる。
  3. トラックバック、コメントといった機能を利用できる。
  4. カテゴリ機能によって記事の自動分類ができる。
  5. permalink(半永久的リンク。記事ごとに与えられるアドレスで、他のブロガー等がその記事を参照する際に便利)

ざっとこんな感じだろうか。あと、はてなダイアリーに限ると、キーワードリンクによってアクセス数が増大するという利点がある。これらの利点はしかし、私にとってはあまり魅力的に映らない。まずHTMLやCSSを習得している時点で1と2はあまり私には必要性が無い。そして私は非常に没交渉的な人間なので、3の機能は持っていても「宝の持ち腐れ」でしかない。4は一見便利そうなのだが、使ってみると自分の思い通りにカテゴライズできない。詳しく言うと段階的なカテゴライズが出来ないのである。つまり「文学→フランス文学→サン・テグジュペリ」のように、まず文学というカテゴリがあり、その下にフランス文学というカテゴリがあって…といった分類が、ブログではできない。「文学」と「フランス文学」が同等のカテゴリとして扱われてしまうのである。そして、はてなダイアリーでは、カテゴリーごとの記事一覧を表示する機能が無い。これらの欠点があるので、私には4の機能は逆に不便でしょうがない。いっそ手作業でカテゴライズしたほうがよっぽど効率的なのである。上の利点のなかで唯一私が魅力的に感じるのは5だが、これはブログでなくともHTMLを書く際に私が気をつければ良いだけの話なのである。

なんだか難癖をつけているようだが、このように、私にとっては「ブログで書く」ということに何のメリットも無い。メリットも無いのに無理にブログで書こうとしたために、このサイトでもブログでもまったく更新がされないという事態が起こってしまったのである。

何故メリットが無いのにブログを利用しようと思ったのかはまた別の機会に書くことにするとして、とりあえず更新を再開することをお伝えしておく。

私の読書癖 [2005年09月19日]

私には複数冊の本を同時進行で読む癖がある。たいがいの人は同時進行で読むにしても2〜3冊程度であるだろうが、私の場合は平均4〜5冊、最高10冊である。今現在読んでいる本(授業での参考書を除く)をあげると、

と、合計9冊。ちなみに『ペスト』以外は全て図書館から借りている。これらの本を、毎日3冊ずつ気紛れに選んで読み進めていく。気紛れなので3日で読み終えてしまう本もあれば、一ヶ月かけて読み終える本もある。また、途中で全く食指が動かなくなってしまった本については図書館に返却する。

このような読み方で一体内容を覚えていられるのかとよく言われるが、何冊同時に読んでいるかにかかわらず、本当に面白い本の内容についてはしっかり覚えているし、そうでないものはたとえ1冊それに集中している場合でも結構忘れてしまう。実際、川端康成の『掌の小説』を読む際、自分の悪癖を改めようとこの1冊のみに集中して読んだのだが、読了した後に覚えている内容といえばたった1,2編にすぎず、読むのが苦痛であったことしか覚えていない。

立花隆氏のように1日に何冊も読み終えてしまう人もいれば、『遅読のすすめ』の著者のように一週間かけて一冊の本を読む人もいる。読書というのはやはり自分の思うままにしていくのが一番なのだと最近は思う。

はてなダイアリーをミラー&言及用に [ 2005年9月20日 ]

17日の記事にあるとおり、ブログで書くことの利便性を無視することにした私であるが、別にはてなダイアリーの利用を止めるつもりは無い。とりあえずネット界隈の話題についての記事の投稿に限定する予定である。あと、リアル友人達の「浮遊塔庭園での記事にコメントを付けたい、トラックバックしたい」という要望に応えて、本サイトの記事をはてなダイアリーに転載することにした。ネットについての記事はあまり書く気が無いので実質はてなダイアリーのほうは浮遊塔庭園::Noteのミラーサイトになると思う。

この記事をはてなダイアリーでお読みの方もいるかもしれないので、以下に本サイトのURLを貼っておく。

浮遊塔庭園
URL:http://kunimiya.fc2web.com/kunimiya/
浮遊塔庭園::Note
URL:http://kunimiya.fc2web.com/kunimiya/note/

幼年時代 T [ 2005年09月20日 ]

本の話ばかりしているのも飽きられるだろうから、自分語りでもしてみようと思う。友人達は最近の私の恋愛事情について語れとしきりに言ってくるのだが、さすがにそれは気恥ずかしいので、まずは子供の頃の話を書いてみる。

小学校に入学する以前、私と家族は東京の杉並区に住んでいた。家は他人の一軒家の二階を借りていて、私と弟が部屋を駆け回っていたりすると、大家さんが怒りに上がってきたものだった。家の周辺の道は坂が多く、私の幼稚園の頃の思い出も、坂を上り下りして幼稚園へ通ったり、合気道の道場へ通ったりしているときのものが多い。

私は仏教系の幼稚園に通っていた。ぶっちゃけると杉並区西方寺の松苔幼稚園の事である。当時この幼稚園では、毎朝最初に保育士が幼稚園児を連れてお墓巡りをするのが慣例だった。当然幼稚園児はおびえて、毎回必ず泣き出す子がいたものだが、その度保育士は「泣くと幽霊が驚いて逃げ出すから、どんどん泣いて良いよー」と笑顔で言うのである。今思い返してみるとちょっとひどい…と思うが、このおかげで何となく墓場や幽霊に対して耐性が出来たので、まあ御利益はあったということか。

お墓巡りが終わると、今度は園長による仏教説話が始まる。説話といっても幼稚園児に聞かせるものであるから、ごく簡単なものだった。今でも記憶に残っているのは、座禅をしているブッダに悪魔が誘惑をしかけてくる話と、「貧女の一灯」という説話である。もっとも、後者のほうは老女が少女に置き換わっていたが、それは聞き手の年齢に合わせたのだろう。

私は不可知論者であるけれども、それでも他人の宗教思想は尊重しているつもりである。その姿勢は多分、この時期のお墓巡りや説話の経験に影響されているのだと思う。(明日につづく)

歴史小説と物理学 [ 2005年9月21日 ]

「幼年時代 T」を書き終えて、就寝しようとしたのだが、どうも眠気が起きない。「幼年時代」の続きを書いても良いのだが、過去の話をすると結構疲れるので、他の話題について書いてみる。

今読んでいる『ファインマン物理学 T 力学』に次のような記述がある。

もしも諸君が将来物理学者になろうというのならば,これから実にたくさんのことを勉強しなければならない.そこにあるのは,この200年間に非常ないきおいで発展してきた知識の世界である.そして諸君は将来更に大学院へも行かなければならないのだ.

この永い間に行われた仕事の量は実におびただしいものである.しかし,驚くべきことには,その厖大な結果をずっと圧縮してしまうことができるのである.――すなわち,いくつかの法則をみつけだして,我々のすべての知識をそれに要約してしまうことができるのである.

別に感動的な文章というわけではない。が、同時に読んでいる『レパントの海戦』のある記述を連想して、妙な感銘を受けたのである。その記述とは次のものである。

レパントの海戦は、歴史上の一事件である。それがキリスト教徒とイスラムの間で闘われたことにいくぶんかの特殊性があるとはいえ、他のすべての戦闘と同じく、男たちはいかに闘ったかの一事に、所詮は帰される戦いである。この視点に立つならば、キリスト教徒であろうとイスラムであろうとちがいは消えてなくなり、四百年の歳月も消えてなくなるように思われる。

「男たちはいかに闘ったかの一事」とは、つまり「レパントの海戦」から人間の普遍的な行為を導き出すことに他ならないだろうか。だとすれば、それは物理学の、200年の歳月を圧縮する「法則」と同等のものであるのではないだろうか。私は歴史小説を今まであまり好まなかったのだが、それは教科書的な「歴史」観にとらわれすぎていて、そこに提示される人文的法則を読み落としていたからなのかもしれない。歴史とは単に記録ではなく、人間の普遍的行為を算出する一つの数式なのかもしれない。

xyzzy

私はxyzzyというテキストエディタでこの記事を書いている。xyzzyとは拡張性の高く、最も有名なUNIX系テキストエディタのEmacsの流れを組むテキストエディタである。書籍を滅多に購入しない私だが、最近『入門 xyzzy』を衝動買いしてしまった。これはかなり異例なことで、私が購入する書籍は大体図書館で借りて一旦目を通したことのあるものばかりなのだ。

衝動買いしてしまった一番の理由は、その内容の半分が、「xyzzy Lisp」について書かれたものだからである。xyzzy Lispとは前述した拡張機能を追加するために使用するプログラミング言語のことで、この言語を使用すれば、FTPアップローダーやLatex書き出しや簡単なゲームの機能をxyzzyに追加できるのである。しかし問題なのは、xyzzy Lispについての資料が少なく、プログラミング学習がしにくいという点である。私が衝動買いしてしまったのはそういう経緯からである。

私は「カスタマイズ」という言葉に弱い。WebブラウザにFirefoxを導入したのも、セキュリティの面からではなく、拡張機能が豊富に存在することからである。といって、私自身は拡張機能を開発するほどのスキルは持ち合わせていない。ただ単に拡張のためのスクリプトが用意されている点に魅力を感じる。

雑多な話 [ 2005年09月26日 ]

『エレキな春』を読んだ

古本屋で偶々、しりあがり寿のマンガ『エレキな春』を見つけたので買って読んでみた。前々からぶっ飛んだギャグマンガという評判は聞いていたのだが、にも関わらず作品の異様な雰囲気に完全に飲み込まれてしまった。どこがどう面白いのかを説明するのはかなり難しいが、強いて言えば『幕末、ホラー、就職等の「真面目な要素」を、駄洒落や無意味なテンションで徹底的にちゃかす』ところが面白さだと思う。『エレキな春』は短編集なのだが、その中でも「呪いは星の数」と「流星課長」が特に秀逸。後でちゃんとした書評を書こうかな。

「クレイタウン」

私の弟は中一なんだが、実はコマ撮り映画を作ることを趣味としている。今までは「LEGO Studio」というLEGO社が提供している動画編集キットを使用していたのだが、付属のカメラがあまりにも駄目すぎでソフトもすぐエラーを起こすので、新しく動画編集ソフトと撮影用のWEBカメラを私が選んで親が購入した。

購入した動画編集ソフトは「クレイタウン」というソフトで、「ニャッキ」の作者のや「ウゴウゴルーガ」の作者であるうるまでるび氏が監修しているコマ撮り用のソフトである。ぶっちゃけ「クレイタウン」には動画編集機能は無くて、撮影機能のみしか無かったのだが、それでもクレイアニメ独自の機能が備わっていてかなり使える。例えば、一コマ前のショットを半透明で現在のカメラ画像の上に重ねる機能がある。この機能はコマ撮りをする際には非常に有用である。大体、アニメーションは一秒24コマのペースで撮影するのが普通だが、このペースでコマ撮り撮影を行う場合、人形を動かす作業が非常に微妙なものとなる。適正な位置より3〜4ミリずれるだけでも相当動きがぎこちなくなるのである。だから上記のような機能が無ければ人形の綺麗な動きを撮影することができなくなる。実際テスト撮影してみると、LEGOスタジオで撮影した時よりも明らかに人形が「生きている」感じがしてくる。

今のところ、「クレイタウン」+「Windows ムービーメーカー」+効果音素材集CDの組み合わせで弟は撮影しているのだが、効果音とBGMとセリフを同時に再生したい場合に、ムービーメーカーではかなり面倒臭くなるらしいので、「Premire Elements 3.0」でも私が買ってやろうかと思っている。キャンパス版だと7000円前後だし。

引き算の怪談話法

最近気になっているサイトにid:ggippsこと我妻氏のブログ「思い出地獄」がある。主に超短編と短歌を掲載しているブログなのだが、この作品が実に独特で面白い。超短編における「面白さ」とは、現実にはありえない映像表現や、小説ではありえない表現を行えることにあるというのが自分の捉え方だが、我妻氏の作品はまさにそのような「超短編の面白さ」が凝縮している。個人的には、「不適切な映像」が良作だと思うが、我妻氏の超短編作品については後々紹介していきたい。

さて、その我妻氏だが、今年度のbk1怪談コンテストで最優秀賞を受賞したらしい。「歌舞伎」がその受賞作である。この作品、原稿用紙2枚ほどの分量であるにもかかわらず、かなり後味の残る「恐怖」を与えてくれる。

「歌舞伎」の上手い所は、ホラー的な要素をできうる限り隠しているところである。通常の怪談では、題材となる「怪奇現象」に理由付けをしていく。実はあの場所は自殺の名所で…とか、怪奇現象が起こる理由、必然性をやたらに作るのがよくある怪談話である。しかし、この「歌舞伎」ではそういった理由付けが一切行われない。「歌舞伎」は子供の頃に拾った錆び付いた乾電池がキーアイテムとなる。その乾電池を故障したラジオに取り付けると何故か復旧し、「歌舞伎のような」声が聞こえる、というのがこの話における「怪奇現象」である。これは私の推測にしか過ぎないのであるが、この「歌舞伎のような声」とは、実は「お経を読む声」であったのではないだろうか。しかし、この怪奇現象自体がこの話の恐怖を作り出しているのでは決してない。肝心なのは、その怪奇現象が全て弟の記憶にしかないということなのである。弟の記憶が正しければ、この「歌舞伎のような声」の物まねをよく主人公はしたという。しかしそれも本人は全く覚えていない。記憶の喪失がこの怪談の重要な事象となっている。「歌舞伎のような声」が何なのか、弟が何故それに固執するのか、本人が何故全く覚えていないのか、すべての事象は理由付けされず、ゆえに「記憶の喪失」の原因を解く鍵が一切見つけられない。この言いようもない不安感が「歌舞伎」の恐怖を生成していると言って良い。

このような、怪奇現象を強調せず、かつ理由付けもしない「引き算の怪談話法」は、内田百聞の掌編小説にも見られる。私の知る限りでは『ノラや』の最初に掲載されている「白猫」がその典型例だと思う。

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